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お金と仕事

レッズ鈴木啓太さんの今 猛反対の中、起業を決断「サッカーも同じ」

2014年、リーグ優勝がかかった一戦でパスミスをし、チームが負け越すという苦い経験をした鈴木さん。「プロは、出場することでチームを勝たせないといけません。不整脈もあり、コンディションが悪い自分は出るべきではありませんでした」と当時を振り返る。写真は引退を表明した試合後のセレモニー=2015年11月22日、長島一浩撮影
2014年、リーグ優勝がかかった一戦でパスミスをし、チームが負け越すという苦い経験をした鈴木さん。「プロは、出場することでチームを勝たせないといけません。不整脈もあり、コンディションが悪い自分は出るべきではありませんでした」と当時を振り返る。写真は引退を表明した試合後のセレモニー=2015年11月22日、長島一浩撮影 出典: 朝日新聞

目次

高校卒業後、J1浦和レッドダイヤモンズに入団し、15年間プレーをした鈴木啓太さん(39)。常に全力投球でも、試合における判断やプレーに後悔はつきなかったと振り返ります。34歳で引退した時、周囲の反対を押し切って事業を立ち上げます。選手時代に痛感したコンディションの整え方を実現する会社。社長になった今、大事にしているのは「現役時代はあっと言う間、人生も」という思いです。「好きなことを追求し続けた先に、次のキャリアがちゃんと待っている」。そう語る鈴木さんに、セカンドキャリアの築き方を聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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J1浦和レッズの選手として、15年間プレーをした鈴木啓太さん。引退後アスリートの腸を研究するAuBの代表取締役に就任
J1浦和レッズの選手として、15年間プレーをした鈴木啓太さん。引退後アスリートの腸を研究するAuBの代表取締役に就任

 

鈴木啓太(すずき・けいた)
1981年7月、静岡県生まれ。東海大翔洋高校卒業後、2000年に浦和レッドダイヤモンズに入団し、現役引退まで所属をする。09年から3年間キャプテンを務める。06年、「オシムジャパン」においてA代表として全試合先発出場を果たす。15年10月にアスリートの腸を研究するAuB(オーブ)を設立。16年1月に引退。同年にAuB代表取締役に就任。
 

「勝つ基準」を身につけた学生時代

<幼少期は「もやし」と呼ばれていたが、レベルの高い環境でサッカーを続けた>

生まれは、サッカーが盛んな静岡県清水市です。小学生の時、サッカークラブの清水FCに入団したのですが、母親からは最初、「サッカーするの!?」と言われたことをよく覚えています。当時、周りから「もやし」と言われるほど色白で線が細かったうえに、サッカーのレベルが高い地域だったので、なおさら驚かれたのだと思います。

自分のスキルはそこまで高くないと自覚していましたが、サッカーのレベルが高いチームに身を置いたことで、高い基準でプレーができていたと感じています。

清水FCでは一つ上の代の先輩が強く、全国大会で優勝。進学した私立東海大学第一中学校(現・東海大学付属静岡翔洋中学校)でも、全国優勝を経験しました。

振り返って思うのは、学生時代に「勝ち癖」がついたということ。勝ち癖とは、“勝てる基準”を習得できたということです。体力、精神力、技術力のトータルにおいて、早くから全国制覇できるレベルの「ものさし」を体得できました。

自分の中では「プロサッカー選手になる」と決めていましたが、高校では全国優勝ははるか遠く、全国大会出場すらできませんでした。それにもかかわらず、高3の時に浦和レッドダイヤモンズ (以下、浦和レッズ)からスカウトを受けました。

なぜ私だったのか。それは今でもわかりませんが、鈴木啓太という人間は、浦和レッズにおいて力を発揮できる選手と思われたのかもしれません。

今、会社経営をしている身として、個人のレベルが飛び抜けて高くなくても、チームの中で力を発揮できる人材がいると感じています。組織には文化や風土があります。その中で働く場合、「相性」は重要になります。

それと同じように、私は浦和レッズのカラーとマッチしていたのかもしれない、と思いました。

小学生時代、少年サッカークラブ「清水FC」でプレーをしていた鈴木さん(左)。清水FCはJリーガーを多く輩出する名門クラブだった。=本人提供
小学生時代、少年サッカークラブ「清水FC」でプレーをしていた鈴木さん(左)。清水FCはJリーガーを多く輩出する名門クラブだった。=本人提供

毎日のパフォーマンスを上げることを意識

<Jリーガー時代、万全なコンディションの日はわずか。腸を整えることが結果につながることを実感>

高校卒業後、2000年に浦和レッズに入団しました。ポジションはミッドフィルダー です。味方の動きを素早く予測し、他の選手よりワンテンポ早く動けたことが強みだったと自負しています。

アスリートになり、日々のコンディションを整えることがいかに大事かを実感しました。約10カ月のJリーグシーズン中、「100%コンディションが良い日」は数えるほどでした。どことなく体が痛かったり、疲れていたりしているんですね。

毎日のパフォーマンスをいかに上げるか。その課題には現役時代から注目をしていました。その一つが、腸を整えることでした。

幼少期から、調理師だった母に「腸が一番大事」と言われて育ちました。また、中高生時代には、トレーナーから筋肉の状態と腸の関連性の話を聞いたこともあり、腸への関心を人より高くもっていました。

腸を整える大切さを実感したのは22歳の時、アテネ五輪アジア最終予選でUAEに行った際のことです。試合前、代表選手の8割がおなかを下してしまった中、私は体調に問題はなく、プレーに専念できました。

コンディションが悪く、結果も悪いというのは、本領発揮ができていない可能性が高く、悔しいですよね。コンディションが良く、良い結果が出たらベストですし、悪い結果が出たとしても、それは実力不足と納得できます。

このUAEでの出来事が、今の仕事を始める原体験の一つとなりました。

鈴木さんと母親。「母は、放課後のクラブチームの練習の送迎から、車の中で食べるおにぎりの準備、土日は試合の応援に駆けつけてくれるなど、いつもサポートしてくれました。感謝してもし切れません」(鈴木さん)=本人提供
鈴木さんと母親。「母は、放課後のクラブチームの練習の送迎から、車の中で食べるおにぎりの準備、土日は試合の応援に駆けつけてくれるなど、いつもサポートしてくれました。感謝してもし切れません」(鈴木さん)=本人提供

現役時代は常に100%で臨んだ

<30歳の時にスランプを経験。妻の「やめてもいいんじゃない」の一言に心が軽くなり、現役続行を決断>

2006年のオシムジャパンではA代表となり、2009年には浦和レッズでキャプテンも務めましたが、「あの時あのパスを出さなかったら……」などの後悔や失敗は山ほどあります。でも一つ言えるのは、常に100%やってきたということ。

高くジャンプできるのは、筋力のついた人だけです。筋力をつけるには、日々の積み重ねしかありません。それは、アスリートだけではなく社会人も学生も皆同じだと思っています。

私は現役時代、手を抜いたことは一度もありませんでした。それでも30歳の時、どれだけ練習してもパフォーマンスが上がらない時期がありました。今思うとスランプに陥っていたのですが、引退も考えました。

その時、妻に「サッカーやめようかな……」と相談すると「やめてもいいんじゃない」とさらっと言われたんです。

その時、「そっか、いつサッカーをやめてもいいんだ」と急に視界が開け、それを機に心が軽くなりました。そこからサッカーの楽しさを再び感じられるようになりました。どんどんサッカーがうまくなるのがわかり、子どもの時に夢中になってサッカーをしていた時と同じ高揚感がありました。

年齢的にベテラン選手になっても自分の成長を感じられたことで、もう少し現役を続けられると思っていました。

しかし、32歳の時にリーグ戦に出場した際、前半開始5分で息切れをしたことがありました。診断結果は、不整脈。手術か投薬かの選択となり、回復に時間がかかる手術より、90%の力しか発揮できなくても、少しでも長くプレーができる投薬の道を選びました。

その後、1年間投薬をして現役を続けましたが不整脈の状態はよくならず、これ以上浦和レッズでプレーするのは厳しいと感じました。他のチームへ移籍するのも違うと思い、引き際だと判断。2016年、34歳の時に現役引退をしました。

選手時代、相手選手と激しく競り合う鈴木啓太さん=2011年2月20日、さいたま市大宮区のNACK5スタジアム
選手時代、相手選手と激しく競り合う鈴木啓太さん=2011年2月20日、さいたま市大宮区のNACK5スタジアム 出典: 朝日新聞

自分の選んだ道をYESにする 

<周囲からの反対の声を押し切り、事業を設立。困難な道を進むのは、サッカー選手を目指した時と同じだった>

アスリートの腸を研究する「AuB」の立ち上げた時期は、現役時代と少し重なっています。当時は代表ではなく一発起人だったので、仕事の負荷はそれほど大きくありませんでした。

引退後、代表取締役になり、サッカーとは直接関係のない仕事に就きました。なぜビジネスの世界に飛び込んだか。正直、これだけ大変だとわかっていたら最初からやっていないかもしれないですね(笑)。

創業当時は周囲から「そんな簡単にうまくいかない」「それは大手企業がやっていること」など反対されました。でも、誰も自分の発言には責任は取らないですよね。何よりも、やるのは自分です。

客観的に見て思ったのは、サッカーも同じだったということ。プロサッカー選手になるのがこれだけ狭き門だとわかっていたら、もしかしたら目指していなかったかもしれません。

実は、サッカー選手になると言った時、最初は母親に反対されましたし、学校の先生もしかりでした。反対の声があっても、やると決めたらやる。自分の選んだ道をYESにする。振り返って、サッカー選手を目指した時も、事業を始めた時も、本質は同じだと思いました。

優勝してトロフィーを掲げて喜ぶ鈴木啓太さん(前列右から3番目)ら浦和の選手たちとスタッフ=2007年11月14日、埼玉スタジアムで、越田省吾撮影
優勝してトロフィーを掲げて喜ぶ鈴木啓太さん(前列右から3番目)ら浦和の選手たちとスタッフ=2007年11月14日、埼玉スタジアムで、越田省吾撮影 出典: 朝日新聞

「何を考えているかわかる」人間になる

<アスリートの「便」を集めるために奔走。理由と目的を語り続け、700人分の収集に成功>

事業を始めて大変なことは数えきれないほどありましたが、最も大変だったのは、ファイナンシャルなど企業運営の知識がない中、収益に直結しない研究開発を数年間続けたことです。

製品化するまでの4年間、クラウドファンディングや投資家の方からの資金調達をしながら研究費用をまかない、やり繰りをしました。

「アスリートの腸内環境は一般の人とは違うはず」という仮説からスタートしたので、まずはその仮説を立証しないといけません。そのため、とにかくアスリートの便を集めることに集中しました。

でも、なかなか便を提供するのって躊躇(ちゅうちょ)しますよね……。そこで知人のアスリートはもちろん、トレーナーの方、栄養士の方にも、自分たちが研究する理由と「今後のアスリートのためにこの研究を役立てたい」という目的を伝え続け、協力をしてもらいました。

おかげさまで、これまで約700人のアスリートの便を集めることができ、事業も少しずつ軌道に乗ってきました。それでも忙しさは変わらず、この1、2年が数日前の出来事に思えるほど一瞬で過ぎていく感覚です。

現在の社員数をたずねたところ、「700人です。あ、違った7人です」と冗談を交えたり、過去のエピソードを芝居風に話したり、気さくにインタビューに応じてくれた鈴木さん
現在の社員数をたずねたところ、「700人です。あ、違った7人です」と冗談を交えたり、過去のエピソードを芝居風に話したり、気さくにインタビューに応じてくれた鈴木さん

最初は5人でスタートしたAuBも、今は社員7人と外部委託の方24人という規模まで成長しました。仲間が皆優秀なので、私は会社をどういう方向に進めたいかというかじ取りに専念できています。

現役時代、監督の役割は選手たちにどんなサッカーをしたいかを示し続ける存在だと感じました。また、監督というのは「うれしい」「今は怒っている」など、わかりやすい方がいいと思ったので、私もできるだけ何を考えているか、今どう思っているかが伝わりやすい人間になりたいと思っています。

「『人生あっという間』というのは真理だと思っています。来年40歳になります。40代は勝負の年、50代は変化を迎える年、そして60代は……これまでで一番楽しい年にしたいと思っています」(鈴木さん)
「『人生あっという間』というのは真理だと思っています。来年40歳になります。40代は勝負の年、50代は変化を迎える年、そして60代は……これまでで一番楽しい年にしたいと思っています」(鈴木さん)

先輩からよく「現役時代はあっと言う間」と言われました。それを実感したのは引退後だったのですが、全てのことは、過ぎ去ればあっと言う間なのかもしれません。ということは、きっと「人生もあっと言う間」なのではと思います。

後輩たちに伝えたいことは、今のこの瞬間、情熱を注ぎ切ってほしいということ。現役時代は、競技を優先しがちですが、「人生を楽しむこと」も忘れないでください。好きなことを追求し続けた先に、次のキャリアがちゃんと待っていると思います。

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