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お金と仕事

挫折ばかりのラガーマンだからできた「スポーツと仕事」の両立

チームのクラブ化でいきた営業現場での学び

24歳でライオンに転職し、ラグビーチーム「ファングス」のクラブチーム化を推進した朱賢太さん(中央)=本人提供
24歳でライオンに転職し、ラグビーチーム「ファングス」のクラブチーム化を推進した朱賢太さん(中央)=本人提供

目次

高校でラグビーを始めてから20年以上現役を続けた朱賢太さん(46)。大学ではレギュラー落ち、最初に所属した社会人チームではまさかの会社倒産など、様々な試練に見舞われましたが、それらは全て成長へのステップだったと振り返ります。仕事とラグビーの両立を目指した朱さんは、所属先のラグビー部をクラブチーム化することに貢献。会社との交渉で生きたのは、営業で身につけたスキルでした。スポーツの活動がビジネスにも生きることを体現してきた朱さん。働き方が多様化する時代、デュアルキャリアの道のりを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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朱賢太(しゅ・けんた)
1974年1月、東京生まれ。私立本郷高校出身。法政大学卒業後、96年にゼネコン に就職。ラグビーと仕事の両立を目指す。 98年にライオンに、2007年にリクルートHRマーケティング(現リクルートジョブズ)に転職し、営業組織の責任者を務める。12年、38歳で現役引退。 17年に東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(以下、東京2020組織委員会)に出向し、採用課長として職員の採用を担当。
 

ラグビーは「適材適所」のスポーツ

<高校受験に失敗してラグビーと出会う。始める時期が遅くても活躍できるスポーツだった>
 

ラグビーを始めたのは高校からです。一般的に、ラグビーを始める時期は大きく分けて2つあります。親の影響で小さい頃からクラブチームに入るか、私のように高校から部活に入るかです。

ラグビーは他の競技と比べてポジションがたくさんあります。たとえ始める時期が遅くても、本人の適性とポジションがマッチしていたら、活躍するチャンスがあるスポーツです。

ラグビー部に入ったのは、高校受験で失敗したことと関係があります。第一志望校に落ち、別の高校に入学しました。その学校に、全国レベルのラグビー部があったんです。

中学までサッカーをしていたのでサッカー部に入部を考えていました。でもラグビーにも興味を持ち、軽い気持ちで仮入部にしたところ先輩に顔と名前を覚えられてしまい、なりゆきで本入部することになってしまいました(笑)。

私は「フランカー」といって、相手選手にタックルをする、パワーとスピードが求められるポジションになりました。日本代表で言ったら、リーチ・マイケル選手と同じです。

このポジションが文字どおり「適材適所」だったのか、高校2年でレギュラーになることができ、高校ラグビーの聖地「花園」でプレーすることができました。ラグビーにのめり込み、スポーツ推薦で法政大学に進学しました。

高校3年の時、東京代表としてオーストラリアに遠征し、3戦全勝をした。「この時主将を務めていたため、カタコトの英語で必死にスピーチをしました」=本人提供
高校3年の時、東京代表としてオーストラリアに遠征し、3戦全勝をした。「この時主将を務めていたため、カタコトの英語で必死にスピーチをしました」=本人提供

ラグビーは大学までと思っていた

<大学の後半はレギュラー落ち。モチベーションが下がるも、コーチからの「思わぬ提案」が転機になった>

大学では1年生の時は数試合に出られたものの、それ以降はなかなか出場できませんでした。早くから活躍できた経験が慢心につながっていたのを、監督に見抜かれていたのかも知れません。

試合に出られない日々が続き、ラグビーの能力の限界も感じたため、社会人ではラグビーを続ける気はありませんでした。周りと同じように就職活動を始めようと考えた3年生の終わり、突然、監督とコーチから「フッカーにポジションを変えてみないか」と言われました。

フッカーはスクラムを組むポジションです。日本代表でいうと、堀江翔太選手のポジションですね。しかしこれまでスクラムなど組んだことがなく、引退も近い時期にゼロから学び直すことに強い戸惑いを感じました。最初はコーチに泣いて抗議したほどです。

でも、落ち着いて考えてみたところ、わずかですが「挑戦してみたい」という気持ちがあることに気づきました。このまま特に思い出もなくラグビーを引退するくらいなら、ポジションを変えて最後にもう一度チームに貢献できたらと思い直し、その提案を受け入れました。

そこからはまず、体の改造を図りました。スクラムを組める体にするために頻繁にジムに通って筋トレをし、6~7キロ体重を増やしました。その結果、首がなくなるほど太くなり、別人のようになりました(笑)

体を大きくしたことと、持ち前の持久力を掛け合わせ、「走れるフッカー」になったことで、大学4年でレギュラーに復帰。最後の大学選手権では、国立競技場でプレーをし、ベスト4という実績を残すことができました。

優勝はできませんでしたが、再びラグビーをすることのよろこびと面白さを感じ、社会人でもラグビーを続けて行こくことを決めました。

法政大学時代、国立競技場で試合をした。ボールを投げ入れる朱さん(手前の背番号2)=本人提供
法政大学時代、国立競技場で試合をした。ボールを投げ入れる朱さん(手前の背番号2)=本人提供

就職活動では、キャリアを長期スパンで考えた

<ラグビーと仕事の両立ができる会社を探した。希望が叶うも、入社2年目で最大の試練が訪れる>
 

就職活動をする上で、軸にしたのは「ラグビーと仕事の両立」です。長い将来を考えた時、現役以降の人生の方が長くなります。近い未来だけではなく、長期的に考えた方がいいと思いました。

日中は仕事ができ、終業後にラグビーができる環境を探した結果、あるゼネコンの会社に就職することが出来ました。配属はガス部門のサービス窓口となり、社会人としての基礎的なマナーや知識を学びながら好きなラグビーが出来ることにやりがいを感じていました。

入社して2年が経った時、チームの努力が実り、社会人リーグ2部だったラグビー部が1部に昇格しました。しかし喜んだのも束の間、なんと親会社が倒産してしまい、ラグビー部が突然廃部になってしまったのです。1部リーグの昇格も水の泡となりました。

これまでの頑張りが一瞬にして消えてしまった悔しさ、そしてラグビーをここでは続けられない悲しさなど、様々な感情が一気にあふれました。ラグビーをしないのであれば、会社に残ることはできましたが、私はラグビーを続けたかった。

そこで、転職を決意しました。再び「仕事とラグビーの両立」を条件に、転職活動をし始めたところ、同じリーグでの対戦相手でもあったライオンに声をかけてもらいました。

後で聞いた話ですが、廃部になったチームの監督、ライオンラグビー部の当時の部長で人事部長でもあった方が相当ご尽力下さったようです。

その縁でライオンに中途入社することができ、これまで通り、ラグビーと仕事の二軸の生活を続けられることになりました。安堵の気持ちと、ライオンに恩返しをしたい気持ちを強く持つようになりました。

法政大学4年時、中央大学と対戦。オレンジのユニフォームが法政大学。スクラムを組む中央が朱さん=本人提供
法政大学4年時、中央大学と対戦。オレンジのユニフォームが法政大学。スクラムを組む中央が朱さん=本人提供

ラグビーの組織運営でマネジメントを学ぶ

<入社2年目で主将に抜擢。練習メニューの考案から、部員のリクルーティングを担当した>
 

仕事は、ドラッグストア担当の法人営業で、営業先が固定されるルート営業でした。これまで営業とは「高いものを売りつける」という固定観念をもっていたのですが、実際は「相手が欲しいものを一緒に探すこと」がこの仕事の本質だと感じました。

前職で電話対応の研修があり、仕事での言葉使いをはじめ、相手を理解する、相手の話をよく聞くことも役立ちましたね。取引先が決まっている分、相手の評価基準を知るなど、自分なりの考え方と行動力で営業経験を積みました。

ラグビーの方では、入部してまず驚いたのは環境の良さでした。前職のラグビー部にはない、自社グラウンドをはじめ、ロッカールームやシャワーを完備したクラブハウスがあり、なんて恵まれているのだろうと感動しました。

私は、外から入ってきた人間として、自分たちがどれだけ恵まれているのかを訴え続け、練習にも励みました。


その姿勢がチームからの信頼を得て、入社2年目でキャプテンを任されました。当時、監督がいないチームでしたので、練習メニューの考案、会社やメンバーとの調整、部員のリクルーティングも行っていました。


ラグビー部の運営の際、選手の採用が一つの鍵になります。福利厚生のチームのため、社員しか部員になれないという縛りがあり、リクルーティングが難航。一時期、チームの存続が危ぶまれました。

そこで考えたのが「クラブチーム化すること」です。外部の選手を採用できれば、選手不足が解消されるうえに、チームの実力も上がると考えました。

会社に相談する際、自分たちの思いを真正面から訴えかけても、理解を得るのは難しいことはわかっていました。そこで、相談をするにあたり、クラブチーム化するにあたっての会社側のメリットを提示しました。

「ライオン時代、クラブチーム化の相談相手だった当時のラグビー部部長(現・取締役)の小林健二郎さんとは今も時々食事をご一緒する仲です」(朱さん)
「ライオン時代、クラブチーム化の相談相手だった当時のラグビー部部長(現・取締役)の小林健二郎さんとは今も時々食事をご一緒する仲です」(朱さん)

当時の「悲劇」は成長の糧となった

<ラグビー部のクラブチーム化を進めた。営業での学びが、交渉に生きた>
 

ラグビー部員たちは仕事との両立をし、ラグビーの経験や学びを仕事に生かしていることをアピールしました。ラグビー部の存続の大切さ、その一方で選手不足により存続が危ぶまれること。そのために、社外の選手の採用を認めてもらうことを訴えました。

社外の選手は会社員としての採用ではないため、会社にとっては経済的な負担やリスクはあまりありません。むしろ、戦力外となってしまった元トップリーグ選手などを採用することでチームのレベルがアップし、ラグビー部としての価値が上がることをアピールしました。

その結果、ライオンファングスはクラブチーム化が認められました。価値基準は人によって違います。相手のメリットになることを考え抜き、提示することで、話を聞いてもらいやすくなったり、交渉がしやすくなったりします。これは、営業での学びとつながっていると感じます。

振り返ると、ラグビー部では、組織運営の経験を積ませてもらっていました。仕事とラグビーの両立は簡単ではなかったですが、給料をもらいながら、好きなラグビーとチームマネジメントの経験ができたことは、感謝しかないですね。

これまで、高校受験の失敗、大学でもポジション変更、就職先の親会社の倒産など、当時は悲劇としか言いようのなかった出来事も、今振り返ると全て成長へのステップになっていると感じています。

【後編へ】朱さんのセカンドキャリア「ラグビー以外でも食べていける」38歳まで現役〝思う存分〟できた理由

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