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「普通の人」の人生聞いてみた 39歳ラーメン店主を変えた「あの味」

「戸越らーめん えにし」の店主、角田匡さん=高橋雄大撮影
「戸越らーめん えにし」の店主、角田匡さん=高橋雄大撮影

目次

「普通の人」の人生を聞いてみた

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 電車の中で、公園のベンチで、たまたま隣り合った人がいる。街を歩いていて、ふと足を止めたコンビニ、あるいは何気なく入った居酒屋ですれ違った人。そんな「普通の人」はどんな人生を送ってきたのか? 商店街にあるラーメン屋店主がもともと働いていたのは、高級イタリアンレストラン。人生を変えたのは、上京して食べ回ったラーメンの味だった。(ノンフィクションライター・菅野久美子)

「まさか、自分でもラーメン屋になるなんて」

 東京都品川区、休日は観光客でにぎわう戸越銀座の駅からすぐの雑居ビルの二階に、「戸越らーめん えにし」という、ラーメン屋がたたずんでいる。そこの店主をつとめるのが、角田匡さん(39歳)だ。昼の営業が終わった直後のお店を訪ねた。

 「まさか、自分でもラーメン屋になるなんて夢にも思っていなかったんですよね」

 角田さんは、客席に座ると一息つきながら、そうつぶやいた。宮城県宮城郡出身。大自然に囲まれて育ったということもあり、趣味は川釣り。男子は全員坊主頭という典型的な田舎の中高で野球や空手に明け暮れるスポーツ少年時代を過ごした。

 物心ついた頃から、いつか、飲食に関わる仕事がしたいと思うようになり、宮城県内の調理師学校に進学。卒業後は、地元仙台のホテルの厨房(ちゅうぼう)の就職試験を受験したが、4人中3人が受かる試験でまさかの脱落してしまう。何とか就職しなければと焦っているときに、東京のフレンチレストランを受けると合格したので、上京することになったのだという。

 「最初に入ったのは、その頃有名な料理の鉄人のフレンチレストランでした。なんで自分が受かったのか、いまだによくわからないです。調理学校時代はぬるい感じだったので、就職先の現場のピリッとした雰囲気とか全然ついていけないんですよ。それで、一カ月くらいで逃げ出しましたね。挫折したんですよね。当時19歳で、そのまま地元に帰れないし、このまま東京から地元に戻るのはだせぇなと思って、そのまま東京には留まることにしました」

「こんなおいしいものがあるのか」

 その後、約1年間のフリーター生活に突入するが、飲食業がやりたいという思いは強くなり、今度はイタリアンレストランに就職。そこでは約2年間、働くことになる。角田さんの働いていたイタリアン店は、お子様お断りで、厳粛な雰囲気の中、一万円のコースに全くお金を惜しまない人がやってくる高級店だった。

 安月給のため、角田さんにそんな高級店で食べる余裕は、当然ながら無い。それよりも当時はラーメンブームということもあって、1千円を握りしめて、無数に存在する都内のラーメン屋を巡る時間が無性に楽しかった。

 「とんこつラーメンですら、上京したときに、初めて食べたんですよ。こんなおいしいものがあるのか、と思いましたね。家系とかすげぇと、とにかく感動しました。今働いている万単価の料理と、1千円のラーメンを比べた時に、ラーメンの方が勝ったんです。職場には良くしてもらって、不満があるわけではなかったんですが、もうその頃にはラーメン屋になると思っていました。それでイタリアンを辞めて、ラーメン屋でバイトを始めたんです」

「やってれば案外できるものなんですよ」

 ラーメン屋でバイトを始めた頃、折しもフリーター時代に働いていたステーキ屋のオーナーから、ラーメン屋を始めるので手伝ってくれないかという連絡があった。それで店を手伝うようになるが、実際一緒に働いたのはわずか一カ月ほど。オーナーに突然、がんが判明して店を維持することができなくなったのだ。

 「その時は23歳で、突然店を売るのか、俺に譲るのか、という選択肢になったんです。でも時代はラーメンブーム真っただ中で、店の経営も状態も知っていたので、いけるんじゃね、という気もしたんです」

 「ラーメン屋でバイトをしていただけだから、味を作ったことがないわけですよ。お店を出してからも色んなやり方を本で学んだり、独学したりですね。でも、やってれば案外できるものなんですよ。移り変わりは激しいところはあるんですが、生き残っているためにしてることは、特に何もないんですよね」

 店の譲渡金額は2千万。当然ながら若かりし角田さんにそんな大金はないので、月々5万円ずつオーナーに返済するという形になった。しかし、その1年後にオーナーはがんが悪化し、そのまま帰らぬ人になってしまう。

 時を同じくしてビルが建て壊されることになり、慌てて不動産屋に駆け込んだ中から出てきたのが今の物件だった。

 「ここ、20坪近くあって広いんです。新しい場所に移ったら自家製麺をやりたいと思っていて、広い場所が欲しかったんです。それで家賃もそこそこな場所を探していたら、この物件が出てきた。移転のタイムリミットもギリギリのときに、ポンと出てきて、じゃあこれにしようと決めましたね」

「根本的に、サボリなんですよ」

 角田さんがそれまでに戸越銀座に来たのは、わずか一回か二回くらいだが、決断は早かった。

 ラーメンははやりすたりが激しい業界だ。初期投資もレストランに比べて少なくて済むが、1年以内に半分は姿を消すと言われる。『えにし』は、地元でも超人気店だが、角田さんは、お金への執着は少なく、これから店舗を増やしていきたいという野心があるわけでもない。

 「根本的に、サボリなんですよ。いかにサボって生きるかということを考えてますね。いっぱいお金をもらって死ぬほど働くなら、ほどほどくらいでいいです。恵比寿時代は、年収が一千万を超えた時もあったんです。でも、お金を得ても別に使い道がないし、そんなにお金いる?という思いがあるんです」

 「20代半ばであくせく働いて、お金を追い求めるのは嫌だと、思ったんですよ。あのまま突っ切ってたら、また別だったと思うんですけど。売り上げが伸びると税金とかやたら払うじゃないですか。6万円の家賃の部屋に住んでるのに、6万円の健康保険とか払わなきゃいけなくて。これって、なんなんだろうと。そんなちぐはぐな生活に違和感があったんですよね」

「震災で距離が詰まったんです」

 戸越銀座に店が移った当初は、客入りも少なく、うまくいかないと思うときもあった。しかし、元からのんびりした性格で、最低限、自分が食べていければそれでいいと思い、あまり焦ったこともない。

 「2階でラーメン屋ってかなり珍しいから、最初は客数もすごく少なかったんです。でも自分が好きなことやってるし、食べるものもあるし、飲む物もあるし、そんなに困らないかなと。あんまり深く考えてないんですよ。もう少しちゃんとしてたら、今もっといい生活してるかもしれませんね」

 ラーメン本の編集者をしていた奥さんとは、東日本大震災をきっかけに、急接近して、翌年の2012年に結婚した。

 「俺は宮城県の沿岸部に実家があるんです。震災があったのは、3.11じゃないですか。3月15日に奥さんの会社の雑誌の取材の予定が入ってたんです。その日の取材は中止になったんですが、それまで全く意識してなかったのに、急に意識するようになった。震災で距離が詰まったんですよ」

 「あの頃は電話でやり取りしてたんですけど、電話がつながらなくなって、メールになったら距離が一気に縮まって、いつの間にか付き合ってました。地震がなければきっと今の奥さんとも何もなくて、スルーだったと思います。不思議ですよね」

 震災は、自分の中で、何かを大きく変えた出来事だったと角田さんは語る。実家はかろうじて難を逃れたが、震災で被災した地元の友人も多い。それまでのふわっとしていた生き方から、ハッと目が覚めた。無性に家族が欲しくなったのも、そのときだ。震災は、角田さんにとって大きな転機となった。

「自分が食っていくだけのお店をやれたらって思います」

 私生活では最近、変化があった。6カ月前に、待望の男の子が生まれたのだ。朝起きると、料理が苦手な奥さんに変わって、まず夫婦の朝食と離乳食を作り、店に出る。決して裕福ではないが、大きな不満もない。そんな普通の日常に幸せを感じている。

 「ラーメン屋さんは、あまりうらやましがられない気がするんですよ。ラーメン屋さんって、たがかラーメンっていう言葉があるくらい、底辺と思われてもおかしくないんです」

 「でも15年こうやってやってるから、なんか言われても何も思わないですね。最初はたかがラーメン屋って言われて、イラついたこともあったかもしれないけど、別にラーメン屋ですけど、という感じでかわせる余裕ができました」

 これからの夢は、全く知らない街でラーメン屋を始めること。いつか、東京でも地元の宮城県でもなく、全く縁もゆかりもない街でラーメン屋を開業したい。角田さんのひそかな野望だ。

 「静かな町で、ぼちぼちと、自分が食っていくだけのお店をやれたらって思いますね。そういうスタンスはこれから先もずっと変わらない気がするんです」

 角田さんはそう言うと、夕方営業の仕込みがあるからと、少しだけ慌ただしそうに厨房に戻っていった。

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