話題
イジメは脳が傷つくからダメ…!? 「科学」を使う道徳授業ってアリ?
いじめをすれば脳が傷つきます...そんな「脳科学」を使った道徳授業が実際に、小中学校で行われています。さて、これは科学的に正しいのでしょうか? いや、そもそも「科学知識」を根拠にした道徳ってどうなんでしょう? 道徳授業の「科学」を調べました。
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いじめをすれば脳が傷つきます...そんな「脳科学」を使った道徳授業が実際に、小中学校で行われています。さて、これは科学的に正しいのでしょうか? いや、そもそも「科学知識」を根拠にした道徳ってどうなんでしょう? 道徳授業の「科学」を調べました。
人をいじめると脳から毒が出るので、いじめは良くない…小中学校で、そんな「脳科学」を根拠にした道徳の授業をする先生たちがいます。いや、それって科学的に正しいの? そもそも、いじめって「科学的にダメだからダメ」なの? 過去には「水の結晶」を用いた道徳授業もありました。道徳授業と「科学」の関係って、どうあるべきなんでしょう?
学校の先生同士が情報交換をするサイトに、そんな授業例が載っていました。脳の中で、呼吸や体温調節をつかさどる脳幹ですが、いじめを受けると「ダメになる」というのです。
今度はいじめる側の話です。「人に意地悪をしたり、いじめたり、悪いこと」をすると、脳から「ノルアドレナリン」という物質が出るというのですが、それは「自然界の中ではヘビの毒の次に強い猛毒です」だといいます。
そして、「いじめをする子は、自分で自分を苦しめていることにもなるのです」という結論が導き出されます。
この授業、本当にやっているの? と、この授業例を投稿した新潟県長岡市の公立小学校の男性教師を訪ねました。
「十数年前にサイトで先行事例を知り、自分でも本を読んで勉強して始めました。去年も同じような道徳の授業をしています。子供たちは『初めて知った』『いじめって恐ろしい』とか、真剣に聞きますね」
先生はそう、明るく語ってくれました。授業のノウハウを研究する地域の教師サークルの間でも、この「脳科学」を使った授業をする仲間はいるそうです。
「いじめは犯罪。許されるものじゃない。いじめられて自ら命を絶つ子どもがいる、ということも、本を読ませたりして教えます。しかし、響かないこともあるんです」と、先生は打ち明けます。「脳科学」を使うのは、「別の視点を与える」という観点からだといいます。「私個人の言葉よりも、科学の話の方が子供たちには新鮮で、受け入れられます」
「脳科学」を使う先生は、新潟だけではありません。西日本の国立大学付属中学校の数学教師は、「プラス思考」を脳の仕組みから説き起こす授業の例を、同じサイトに投稿しています。
電話で伺うと、この先生も2010年ごろにサイトで情報を得て、本も読んで「自分なりに組み立ててみた」とのことでした。毎年行っており、今年もすでに担任するクラスでこれを改良した授業をしたそうです。
「作り話や物語で教える道徳は、自分でも上滑り感がありました。科学的根拠がある方が、子どもに対して説得力があります」
まず、その「脳科学」は正しいのでしょうか? 脳と心理を研究する名古屋大学教授、大平英樹さんにチェックしてもらいました。
まず、「いじめられると脳幹がだめになる」ですが…
「△ですね」。実際に、強い精神的な衝撃による心の傷、PTSDを負った人の脳で、「海馬」と呼ばれる部分が萎縮するのは有名だそうです。「脳幹に限りませんが、強いストレスで脳に障害が出ることはあり得ます。ただ、科学的な報告があっても論争中のものも多く、そう単純ではありません」
では「ノルアドレナリンは毒」ですが、これは「×」。ノルアドレナリンはピンチの時など、ストレスを感じたときに脳などを活発化させる物質だそうです。意識を覚醒させ、対応できるよう備える神経伝達物質で、役目を終えると分解されます。「なので、何かの原因でたくさん分泌されても、健康な人が病気になることはありません」
そして「エンドルフィン」は「△」でした。気持ちよさをつかさどる物質のひとつで、「いいことをすることが好きな人」ならば人に親切にしたときにも出る、という脳の働きを示した研究はあるそうです。ただし、反社会的なことが好きな人なら、「悪いこと」をしても出うるとのこと。
「根本的な話として、脳の活動と善悪は関係ありません。人体は誰でも同じ仕組みですが、何が『善い』かは文化や状況によって変わります。だから、様々な『善い』に対応する画一的な体の反応はあり得ません。単純化は危険です」
「水に良い言葉で語りかけるときれいな結晶ができる」という話を題材にした道徳教育もあります。これは2000年代、多くの科学者から「間違っている」と指摘され、批判もされているので、ご存じの方も多いかもしれません。
この問題に詳しい文教大学教授の長島雅裕さんによると、この授業の原型は1990年代末に書かれた本です。
「ありがとう」などの「良い」言葉を見せた水と、「ばかやろう」などの「悪い」言葉を見せた水をシャーレ(実験用小皿)に少量とり、-5度の部屋で観察すると、水が凍った氷の先に「水の結晶」ができ、良い言葉をかけた結晶は美しく、悪い言葉の結晶は汚くなる、という内容。だから「きれいな言葉を使おう」と結論します。
長島さんは「水が言葉に反応することはありえず、もちろん間違いです」と語ります。最も盛んだった00年代には、1自治体で2割の学校で使われていた、という報道もあったそうです。
この授業は今も、続いているようです。福岡県内に住む大学生は今春、バイト先の塾で生徒から「水にありがとうと言うときれいな結晶が出来る、と授業で聞いた」と言われ、「まだやっているんだ」と驚いたといいます。
この学生さん自身、中学時代に全校集会で校長先生から同じような話をされました。「先生が言うぐらいだから本当だろう」と一時は信じましたが、その後、真実ではないと知りました。「こんな話でだましやがって」。先生への信頼が崩れた、と振り返ります。
完全に間違った「科学」を使った道徳授業もある反面、「間違いとまでは言えない」ものもありました。ひょっとすると「正しい科学」を使った授業もあるかもしれません。
間違っている、間違っていないにかかわらず、道徳の授業に「科学的事実」を持ち込む是非って、どうなんでしょう? 「脳科学」でお話を伺った名古屋大の大平さんは「違和感を覚えます」とおっしゃいました。
そこで、道徳教育に詳しい教育哲学者の長崎大学准教授、山岸賢一郎さんに伺いました。まず、科学として間違っているものを根拠にした道徳教育って、どうでしょう?
「端的に言って、道徳的ではないのでダメです。意図的ではないにしても、結果的にウソになることで児童生徒を言いくるめよう、っていうのは道徳的じゃないですよね。教育基本法も、教育の目標のひとつに『真理を求める態度を養う』ことを掲げているわけですし」
では、科学的に全く正しい「事実」に基づく道徳授業はどうでしょう?
「哲学の世界では知られたことですが、『○○である・でない』と『○○すべきだ・すべきでない』の間には絶対に埋まらない溝があります。つまり、科学が教えてくれる『である』をいくら積み重ねても、『すべきだ』にはなりません。その間を埋めるのは、あくまで道徳的な判断です」
と、いうことは?
「そもそも、道徳の授業の目的は、児童生徒の道徳的な判断力を養うことです。その判断を児童生徒自身にさせず、『科学』という権威を使って判断結果を押しつけようとするのは、不適切です。文部科学省の唱える『考え、議論する道徳』と対極ですね」
なるほど。しかし、学校の先生方も熱心で、良かれと思ってやっていることでしょう。お会いした長岡の先生も、マジメな方でした。どう対応すべきでしょうか。
山岸さんはこう、考えます。
「学校の先生方に、きちんとした環境を整えてあげるしかないです。自分の授業の工夫が果たして適正かどうか、まずは同僚とチェックし合えるような環境ですね。学校の先生が忙しすぎて、そうしたことができないのが問題だと思います」
◇ ◇ ◇
道徳はこれまで、国語や社会科のような「教科」ではありませんでしたが、来年度から小学校で、再来年度から中学校で、それぞれ正式な教科になります。つまり、児童生徒の成績がつけられるようになります。学校の道徳の重要性は今後、さらに増していきそうです。
ご自身やご家族、ご友人が受けられた道徳の授業で、「科学」の使われ方がヘンだと思っこと、ありませんか? もしあれば、「取材リクエスト」からお教え下さい。さらに「フカボリ」したいと思います。
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