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日本列島改造論が生まれた日 中身は?結末は? 田中角栄の豪胆人生

自宅でテレビのインタビューに答える田中角栄氏=1972年7月6日
自宅でテレビのインタビューに答える田中角栄氏=1972年7月6日

目次

 1972年6月11日は田中角栄元首相によって「日本列島改造論」が発表された日です。非エリート・苦学の経歴から、空前の「角栄ブーム」を巻き起こしました。最近も「角栄ブーム」として、石原慎太郎氏の『天才』や、実の娘、田中真紀子氏の『父と私』などがベストセラーになるなど、今もなお人々の心をつかんでいます。

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田中角栄氏の『日本列島改造論』
田中角栄氏の『日本列島改造論』

15歳で上京、住み込み店員から首相へ

 角栄氏は1918年、新潟県生まれ。高等小学校(現在の中学校)を卒業後、15歳で上京。住み込み店員などをしながら、1936年私立中央工学校を卒業、1943年土建会社を設立します。

 1946年の戦後第1回の総選挙で落選しましたが47年、新憲法下初の総選挙で新潟3区から初当選。89年10月に病気で引退するまで連続16回当選し、72年7月には54歳で首相に就任しました。

 首相になると、日中国交正常化を果たし、「日本列島改造論」をもとに開発主導の政策を推進しました。

 1976年のロッキード事件で、受託収賄罪などの容疑で逮捕。自民党を離れた後も、自民党最大派閥の旧田中派を率いて「キングメーカー」として政界に強い影響力を及ぼしました。

角栄氏の「日本列島改造論」を伝える紙面(1972年6月12日の朝日新聞)
角栄氏の「日本列島改造論」を伝える紙面(1972年6月12日の朝日新聞)
<田中角栄> 1918年-93年。新潟県生まれ。高等小学校を卒業し、15歳で上京。住み込み店員などをしながら、36年私立中央工学校を卒業、43年土建会社を設立。朝鮮半島で理研の工場建設を請け負っていたが敗戦によって引き揚げた。46年の戦後第1回の総選挙で落選したが47年、新憲法下初の総選挙で新潟3区から28歳で初当選。89年10月に病気で引退するまで連続16回当選した。72年7月に54歳で首相に就任、日中国交を回復。日本列島改造論を唱えたが土地投機などからインフレを招き、折からの石油ショックで狂乱物価となり、「田中金脈問題」を引き金に74年11月、内閣総辞職。76年7月、ロッキード事件で逮捕、起訴され83年東京地裁で懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が言い渡された。
1999年6月2日:ベンチャーの旗手 窮地を救う(回り舞台 大河内正敏:2):朝日新聞紙面から
田中元首相は昭和47年の自民党総裁選で福田赳夫氏らを破って当選、首相に就任してから日中国交正常化を果たし、「日本列島改造論」をもとに開発主導の政策を推進したが、昭和49年に「金脈問題」で退陣した。ロッキード事件で自民党を離れたあとも、自民党最大派閥の旧田中派を率いて「キングメーカー」として政界に強い影響力を行使してきた。
1989年10月14日:田中角栄元首相が引退 総選挙不出馬、世代交代に拍車:朝日新聞紙面から
右手を挙げ得意のポーズをとる田中角栄氏
右手を挙げ得意のポーズをとる田中角栄氏 出典: 朝日新聞

「都市の過密と地方の過疎」解消掲げるも…

 「日本列島改造論」が発表された当時の日本は、経済成長のひずみから、都会と地方の格差が広がり、公害などの問題も発生していました。

 角栄氏が唱えた「日本列島改造論」は、工業を全国に再配置し、地方と都市とを新幹線や高速道路で結ぶというもの。都市の過密と地方の過疎を一挙に解消する構想でした。

自民党総裁選を三日後に控え、余裕の表情を見せる田中角栄氏=1972年7月1日
自民党総裁選を三日後に控え、余裕の表情を見せる田中角栄氏=1972年7月1日 出典: 朝日新聞
72年当時の日本は、経済成長のひずみで都市と地方の格差や公害などの問題が起きていた。田中が唱えた日本列島改造論は、工業を全国に再配置し、それら地方と都市とを新幹線や高速道路、通信網で結ぶもの。都市の過密と地方の過疎を一挙に解消する、夢のような構想だった。
2012年4月7日(サザエさんをさがして)日本列島改造論、狂乱物価とともに去りぬ:朝日新聞紙面から

「コンピューターつきブルドーザー」

 角栄氏は「コンピューターつきブルドーザー」と呼ばれ、絶大な指導力を発揮しました。

 同名の本が日刊工業新聞社から出版(現在は絶版)され、90万部を超えるベストセラーとなった「日本列島改造論」。

 その後の国土開発の基礎となった半面、公共事業の拡大、開発主導による地価上昇を招きました。

自宅で池のコイを呼ぶ田中角栄氏=1964年12月27日
自宅で池のコイを呼ぶ田中角栄氏=1964年12月27日 出典: 朝日新聞
<日本列島改造論> 1972年6月20日、日刊工業新聞社から出版(現在は絶版)。90万部を超えるベストセラーとなった。明治元年(1868年)からの約100年、日本は東京一極集中が進んだ歴史だったと指摘。その流れを変えるために「国土維新」を掲げ、都市と地方を結ぶ鉄道網、高速道路網を整え、地方に工業を再配置して、地方で豊かに暮らせる国づくりを唱えた。その後の国土開発の基礎となった半面、公共事業の拡大、開発主導による地価上昇を招いた。
2012年4月30日:(証言そのとき)国策とともに:1 改造論、省庁が結集 小長啓一さん:朝日新聞紙面から

愛人も…豪胆すぎる人生

 角栄氏が今も話題になるのは、政治家としての仕事だけが理由ではありません。

 角栄氏の非嫡出(ちゃくしゅつ)子である佐藤あつ子さんは、朝日新聞の取材に、愛人から詰め寄られて悩む角栄氏の知られざる一面について語っています。

 「君程(ほど)の悧口(りこう)な女は初めてである。代議士をやめてもよい」。家を買ってと迫られると、「六千万円程(ほど)の借金が」と買い渋る。認知しなかった娘の先々を案じて「三日ばかりよくねむれない」と書いた手紙も。

 夫人(目白)、芸者(神楽坂)、あつ子さんの母で秘書の佐藤昭子さん(赤坂)の3軒を巡った角栄氏。それぞれの家で、同じやり方で家族だんらんを演じ切り、子どもに記念切手を与え、濃い口のすき焼き鍋を囲んだそうです。

 人口が減り、格差が広がる現在だからこそ、角栄氏の豪胆すぎる人生が、多くの人の心を引き寄せているのかもしれません。

浪曲歌合戦に出場した田中角栄氏(右端)。後方右からトニー谷、村上元三、志村立美、柳亭痴楽、丹下キヨ子=1958年2月
浪曲歌合戦に出場した田中角栄氏(右端)。後方右からトニー谷、村上元三、志村立美、柳亭痴楽、丹下キヨ子=1958年2月 出典: 朝日新聞
漫談師のような抑揚をつけて、田中角栄元首相の非嫡出(ちゃくしゅつ)子である佐藤あつ子さん(54)は来し方をふりかえった。母は、一昨年亡くなった「越山会の女王」佐藤昭子さん(享年81)。母との葛藤の歳月を赤裸々につづり、「昭 田中角栄と生きた女」(講談社)として刊行した。
直筆の手紙を何通か拝見して驚いたのだが、豪胆に見えて角栄氏、実は愛人から詰め寄られて悩みに悩む男だった。別れを切り出されると「君程(ほど)の悧口(りこう)な女は初めてである。代議士をやめてもよい」。家を買ってと迫られると、「六千万円程(ほど)の借金が」と買い渋る。認知しなかった娘の先々を案じて「三日ばかりよくねむれない」と書いた手紙もある。
2012年6月17日:(ザ・コラム)角栄氏の情愛 豪胆さの裏、悩める男 山中季広

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