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国会前デモ、55年前の「樺さん事件」 安倍首相の祖父、岸首相退陣

国会議事堂周辺で繰り広げられているデモ活動。今から半世紀以上前にも、女子学生1人が亡くなる「6・15事件」と呼ばれるデモがありました。

東大生樺美智子さんが死んだ後、国会議事堂前で、連日、気勢をあげる全学連主流派=1960年6月17日
東大生樺美智子さんが死んだ後、国会議事堂前で、連日、気勢をあげる全学連主流派=1960年6月17日 出典: 朝日新聞

目次

 安全保障関連法案を審議している国会議事堂で8月30日、最大規模のデモがありました。主催者発表で12万人が集まった抗議活動について、ロイター通信は「1960年代以来の規模」と伝えました。今から半世紀以上前にあった安保阻止統一行動では、女子学生1人が死亡しています。「6・15事件」と呼ばれる当時のデモは、どのようなものだったのでしょうか。

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戦後最大と言われる国民運動

 1960年1月19日、安倍晋三首相の祖父である当時の岸信介首相が、改定した新安保条約に調印します。新安保条約には、在日米軍基地が攻撃を受けた際に自衛隊も共同で防衛する規定などがあったため、学生や労働組合を中心に反対運動が高まります。

 1960年5月20日、衆院で自民党が新安保条約を強行採決したことで、岸内閣に対し「民主か独裁か」との批判が起こります。デモ隊が国会周辺を連日包囲し、反対運動は戦後最大と言われる国民運動になっていきます。デモ参加者は、全国で数百万人に及んだとされています。

岸内閣の退陣を求めるデモ=1960年6月17日
岸内閣の退陣を求めるデモ=1960年6月17日 出典: 朝日新聞
1960年1月19日に米国で岸信介首相が改定した新安保条約に調印。学生と労組を中心にした反安保運動が高まり、衆院での強行採決もあって市民を巻き込んだ戦後最大の国民運動となっていく。6月15日、全学連主流派が国会に入り、警官隊と衝突。東京大4年生の樺(かんば)美智子さん(当時22)が亡くなった。
2013年11月30日:(昭和史再訪)日米安保条約改定 35年 自ら街頭へ、市民運動の原点:朝日新聞紙面から
 <1960年の主な出来事>
  1.19ワシントンで岸信介首相が日米新安保条約に調印(日本時間20日)
  2.19衆院安保特別委で審議開始
  5.19国会に警官隊導入し自民党が会期延長決める。全国に安保反対運動広がる
  5.20自民党、未明に新安保条約案を強行可決。全学連主流派が首相官邸に乱入
  6.10アイゼンハワー米大統領の訪日準備のためハガチー秘書が来日、羽田でデモ隊に囲まれヘリコプターで脱出
  6.15反対統一行動に580万人。全学連7000人が国会構内に乱入し警官隊と衝突。東大生樺美智子さん死亡
  6.16臨時閣議でア大統領の訪日延期要請を決定
  6.17東京の7新聞社が共同宣言「暴力を排し議会主義を守れ」。社会党の河上丈太郎顧問が衆院面会所で刺され負傷
  6.19新安保条約が自然承認される
  6.23新安保条約発効。岸首相、退陣発表
1990年5月22日:樺美智子さんの死 30年前アンポがあった(記写縦横):朝日新聞紙面から
<60年安保闘争> 日米安全保障条約(51年締結)を改定した新安保条約は、60年1月19日に調印された。在日米軍基地が攻撃を受けた際に自衛隊も共同で防衛する規定などがあったため、「日本を戦争に巻きこむ」と批判が起きた。この間のデモ参加者は、全国で数百万人に及んだとされる。
2010年6月14日:60年安保、半世紀目の問い 吉本隆明氏、石田雄氏に聞く:朝日新聞紙面から

樺さんの死、内閣総辞職

 事件が起きたのは6月15日です。全学連主流派が国会に入り、警官隊と衝突。東京大4年生の樺(かんば)美智子さん(当時22)が亡くなりました。樺美智子さんは東大文学部国史学科に在学中で、文学部自治会副委員長だった60年1月、岸首相訪米阻止闘争で警察に逮捕されていました。

 6月18日、国会周辺は、安保改定阻止国民会議の調べで33万人、警視庁調べでも13万人という人数のデモで埋まりました。19日午前0時、新安保条約が参院での議決を経ないまま「自然承認」されます。

 「6・15事件」を受け、岸首相は新安保条約のアイゼンハワー米大統領の訪日を断念し、退陣を決断。新条約は「自然承認」されたものの、岸内閣は総辞職します。

死亡した東大生の樺美智子さんを悼む合同慰霊祭で、現場となった国会南通用門まで行進する参加者
死亡した東大生の樺美智子さんを悼む合同慰霊祭で、現場となった国会南通用門まで行進する参加者 出典: 朝日新聞
樺美智子さんは東大文学部国史学科に在学中で、文学部自治会副委員長だった60年1月、岸首相訪米阻止闘争で警察に逮捕された。そして、6月15日、国会前で死亡。22歳。その直後、母光子さんは「遠く離れてしまった星……美智子の霊よ安らかに」との手記を「週刊朝日」に寄せた。
1990年5月22日:樺美智子さんの死 30年前アンポがあった(記写縦横):朝日新聞紙面から
6月15日、国会内での衝突で東大生の樺(かんば)美智子が死亡したことを受け、岸はアイゼンハワーの訪日を断念し、退陣の腹を固めた。新条約は参院で議決のないまま自然承認されたものの、岸内閣は総辞職した。岸のあとに首相になった池田勇人は経済重視の「所得倍増論」を訴え、憲法改正を封印した。
2015年5月29日:(70年目の首相 系譜:6)安保闘争、くじかれた改憲:朝日新聞紙面から

今も追悼式

 「6・15事件」の記憶は、現在、デモ活動に参加している人にも受け継がれています。2015年6月15日、国会議事堂周辺では樺さんの追悼式が開かれました。

 参列者は黙禱(もくとう)の後、樺さんの遺影が置かれた祭壇に献花。その後、交代でマイクを握り、「安保法制は憲法9条の無視」「国家権力が再び暴走している」などと訴えました。式の責任者の三上治さん(74)は「樺さんが生きていたら今の状況をどう考えるか。改めて現政権への怒りをぶつけていきたい」と話していました。

樺美智子さんの遺影が置かれた献花台に、花を手向ける参列者ら=2015年6月15日
樺美智子さんの遺影が置かれた献花台に、花を手向ける参列者ら=2015年6月15日 出典: 朝日新聞
1960年の日米安保闘争で、国会に突入したデモ隊に加わっていた東大生、樺(かんば)美智子さん(当時22)が警官隊との衝突で命を落とした15日、東京都千代田区の国会議事堂周辺で追悼式があった。
樺さんを追悼、国会前で献花 参列者「国家、再び暴走」

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