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感動

忌野清志郎さん七回忌 音楽ファンの間で伝説となった弔辞

5月2日は忌野清志郎さんの命日で、今年は七回忌。亡くなった際の「伝説的な弔辞」をまとめました。

忌野清志郎さん
忌野清志郎さん 出典: 朝日新聞社

目次

 5月2日は忌野清志郎さんの命日で、今年は七回忌です。いまなお多くの人の心に残る清志郎さん。音楽ファンの間で語り継がれている甲本ヒロトさんの弔辞などをまとめました。

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忌野清志郎さんの葬儀会場に詰めかけた大勢のファン=2009年5月9日、東京都港区
忌野清志郎さんの葬儀会場に詰めかけた大勢のファン=2009年5月9日、東京都港区 出典: 朝日新聞社
がんとの闘いの末、2日に58歳で亡くなったロックミュージシャン、忌野清志郎さんの葬儀が9日正午から、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。「ありがとう」「ゆっくり休んで」――ファンの絶叫が飛びかう会場周辺は、「キング・オブ・ロック」への別れ涙でいっぱいになった。(中略)葬儀は「AOYAMA ROCK’N ROLL SHOW」と銘打たれた。最後は昨年の「完全復活祭」で清志郎さんと同じステージを踏んだバンドメンバーが「雨あがりの夜空に」を演奏して別れを惜しんだ。葬儀会場外では、一般弔問の列が前日の午後10時からできはじめた。会場前では生前イラストに描いたウサギのバルーンが参列者を迎えた。
2009年5月9日付朝日新聞「キング・オブ・ロック」に別れ ミュージシャン・忌野清志郎さん、雨あがりの葬儀

「出番はないかと駆けつけてくれた」 竹中直人さんの弔辞

 僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。「なんて独特な声の持ち主なんだ」。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」
忌野清志郎さん=1994年7月
忌野清志郎さん=1994年7月 出典: 朝日新聞社
 清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」
僕たちのことを見守っていてくださいね。見て欲しくない時は、目をつぶって見て見ぬふりをしていてください。でも、ここだって時は、僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」
忌野清志郎さん=1992年4月、東京・日本武道館
忌野清志郎さん=1992年4月、東京・日本武道館 出典: 朝日新聞社

1970年デビュー 楽曲の発売中止も

清志郎さんはどんなアーティストだったんでしょうか。少し振り返ってみます。

 70年にアコースティック編成のバンドRCサクセションでデビュー。その後、よりロック、R&B色を強くしたバンドとして生まれ変わり、「スローバラード」(76年)「雨あがりの夜空に」(80年)「トランジスタ・ラジオ」(同)などがヒット(中略)「愛しあってるかい?」などステージ上の決めゼリフも多く、後進のロックバンドに大きな影響を与えた。
2009年5月3日付朝日新聞 忌野清志郎さん死去 ロック歌手・RCサクセション、58歳
RCサクセションのアルバム「COVERS」とシングル「ラヴ・ミー・テンダー」の発売中止を伝える1988年の新聞広告
RCサクセションのアルバム「COVERS」とシングル「ラヴ・ミー・テンダー」の発売中止を伝える1988年の新聞広告 出典: 朝日新聞社
 反原発の楽曲を含むアルバム「カバーズ」(88年)、またパンク風に編曲した「君が代」を収録したアルバム「冬の十字架」(99年)がともに発売中止になり物議を醸す。「北朝鮮に行きたい」と歌うなど、社会問題を果敢に曲に取り込むことでも知られたが、同時に、何かの運動のシンボルに祭り上げられることはかたくなに拒否してきた。
2009年5月3日付朝日新聞 忌野清志郎さん死去 ロック歌手・RCサクセション、58歳

「ひどいよ、この冗談は」 甲本ヒロトさんの弔辞

清志郎さんは、「THE BLUE HEARTS」や「ザ・クロマニヨンズ」で知られるミュージシャン、甲本ヒロトさんと親交がありました。甲本さんは葬儀で、こう語りかけました。

清志郎ーっ。あなたとの思い出にろくなものはございません。突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり、何だか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり、レコーディングの作業中にとんちんかんなアドバイスばかり連発するもんで、レコーディングがとどこおり、そのたびに我々は聞こえないふりをするのが必死でした。でも、今思えば、全部冗談だったんだよな。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」
忌野清志郎さん=1992年4月、東京・日本武道館
忌野清志郎さん=1992年4月、東京・日本武道館 出典: 朝日新聞社
(ザ・フーの来日公演の客席で)一観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは業界のコネをフルに生かした戦利品とでもいいましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。ちっともあなたは観客席の一人でなかった。僕があまりにうらやましそうにしているので、二枚あったそのうちの一つを僕にくれました。(ポケットを探り)こっちじゃねえや、これだ。ピート・タウンゼントが使っていたピックです。これはもう、返さなくていいね。収めます。ありがとう。一生忘れないよ。短いかもしれないけど、一生忘れない。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」
ありがとうを言いに来たんです。数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。きょうもそうだよ。ひどいよ、この冗談は。そんでね、ありがとうを言いにきました。清志郎ありがとう。それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、それから家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん、どうもありがとう。どうもありがとう。で、あと一つ残るのは、きょうもたくさん外で待っているあなたのファンです。彼らにありがとうは、僕は言いません。僕もその一人だからです。それはあなたが言ってください。
 どうもありがとう。ありがとう。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」

「最高だぜ!って答えられるように」 大竹しのぶさんの弔辞

 あなたの病気の再発がわかった夜、私はゆうべのように空を見ながら、どうぞ一日も早く病気が治りますように、がんなんてどっかにいってしまいますようにとお祈りしました。そのとき、ああ今こうしてたくさんのファンの人たちが私と同じように清志郎さんにすごいパワーを送っているんだなということを感じました。「清志郎、がんばれ」「清志郎、絶対戻ってこい」って、あなたが言った「夢を忘れず」にという言葉と一緒に。だから絶対治ると信じることができました。そのことをあなたに言ったら、あなたからの返信は「ラブ ラブ ラブ」でしたね。「みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね」という力強いものでした。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」
忌野清志郎さん=2004年6月
忌野清志郎さん=2004年6月 出典: 朝日新聞社
ときどき空の上から「愛しあってるかい」って問いかけて下さい。「OK、ベイビー、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く、優しく、明るく、楽しく生きていきます。清志郎さん、本当にお疲れ様でした。そして本当に本当にありがとう。
2009年5月9日 朝日新聞「言葉、声、歌ずっと生きている 清志郎さん葬儀弔辞全文」

葬儀当日、ファンの列は数キロにおよび、献花は午後11時近くまで続いたそうです。葬儀での弔辞の全文はこちら↓

ロックミュージシャン忌野清志郎さんの葬儀が営まれた9日、会場になった東京都港区の青山葬儀所には、別れを惜しむ友人やファンら約4万2千人(所属レコード会社発表)が弔問に訪れた。前日夜から並んだというファンを先頭に、全国から集まった人たちの列は数キロにもおよび、献花は午後11時近くまで続いた。
2009年5月10日付朝日新聞 ロックミュージシャン・忌野清志郎さん葬儀、深夜まで弔問客

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