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愛川欽也さん死去 「テレビは大衆に愛されてこそ」業界に神話残す
俳優やテレビの司会者として知られる愛川欽也さんが亡くなりました。
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俳優やテレビの司会者として知られる愛川欽也さんが亡くなりました。
テレビ番組の司会者や俳優として知られる愛川欽也(あいかわ・きんや、本名井川敏明〈いがわ・としあき〉)さんが15日、肺がんのため亡くなりました。80歳でした。愛川さんの個人事務所が17日午前に発表。「昨年冬より体調の不安を訴え、検査したところ、肺がんと判明」「本人たっての希望により、入院はせず在宅での懸命な治療を続けて参りましたが、容体が急変し自宅にて旅立ちました」と書面で報道各社に伝えました。妻はタレントのうつみ宮土理さん。
個人事務所は「最期まで仕事に復帰する可能性に懸けていた本人の強い希望で病状を伏せておりました」「根っからの仕事人間であった愛川は肺がんを発症した以降も仕事に情熱を燃やしており、息を引き取る直前まで『仕事に行こう』と寝言のように申しておりました」「最期まで仕事に恵まれた幸せな、愛川欽也の人生を支えてくださった全ての皆様に心より感謝致します」としています。愛川さんの遺志に従い、妻のうつみさんら近親者ですでに密葬がとりおこなわれました。
愛川さんは、東京都豊島区巣鴨生まれ。偶然入った映画館のフランス映画を衝撃を受け、埼玉の名門・県立浦和高校を中退。俳優座養成所の研究生として演技を学び、声優や深夜ラジオ「パック・イン・ミュージック」のディスクジョッキーで人気に。「キンキン」の愛称で親しまれました。その後、「トラック野郎」シリーズなどの映画やドラマに数多く出演、「11PM」「なるほど!ザ・ワールド」「出没!アド街ック天国」といったテレビ番組の司会者としても幅広く活躍しました。
「劇団キンキン塾」も主宰。夫妻の愛称にちなんだ劇場「キンケロ・シアター」を私財を投じて東京・目黒の住宅街に建て、次世代の役者たちの指導に情熱を注いでいました。
愛川さんを国民的な人気俳優に押し上げたのが、1975~79年に10作が公開された映画「トラック野郎」でした。菅原文太さんが演じる失恋ばかりの「一番星」と、愛川さん演じる子だくさんの三枚目「やもめのジョナサン」の運転手コンビが、デコトラに乗って涙と笑いの珍道中を繰り広げるストーリー。
じつはこの映画、アイデアを出したのは愛川さんでした。「映画をやりたいなと思っていたときに、派手に飾った面白いトラックが流行しているというテレビの特集番組をみて、これだと思ったんだよね」。
愛川さん自身がかつて吹き替えした米国の人気ドラマ「ルート66」を下敷きにして、簡単な企画書を東映に提出。準備から公開まで2カ月という急ごしらえの企画でしたが、大ヒットしました。「主人公のアウトロー性、警察へのおちょくりが受けた。誰しも交通違反の切符きられて、罰金とられて、悔しい思いをしていたから痛快だったのでしょう」。
このシリーズは、特殊浴場のシーンあり、ベテラン女優のヌードシーンあり、ケンカに脱糞など、とにかく下品でメチャクチャでしたが、世代を超えた一大ブームを巻き起こし、東映のドル箱に。「映画が元気だった時代の最後の作品。ぜいたくなロケもできたし、へんに自主規制せずに自由に作ることができた」。後年、愛川さんはそう振り返っています。
愛川さんは数々のテレビ番組で司会者も務め、多くの長寿番組を育てました。「11PM」(日本テレビ)は12年間、「パックインジャーナル」(朝日ニュースター)は14年間、「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ)は15年間続き、「キンキンの番組は長い」との業界神話が定着しました。
1981年に始まった「なるほど!ザ・ワールド」は、海外の話題を紹介する「情報クイズ番組」ブームの先駆けでした。最高視聴率は36.4%、平均でも20%超というお化け番組でした。同じく司会を務めた93年のTBSのクイズ番組では、生放送中に視聴者からの解答電話が殺到。放送中の午後7時半過ぎから1時間半ほど、関東各地で電話がかからなくなる騒ぎも起きました。
「おまっとさんでした」のあいさつで始まるテレビ東京の地域密着バラエティー「出没!アド街ック天国」には1995年から今年3月まで、20年間にわたり出演。「あなたの街の宣伝本部長」として、1千回の司会を務めました。プロデューサーの1人は「下町でがんばる高齢の商店主のVTRが流れる時なんか、愛川さんは実に優しい目になるんです。街や歴史に対する知識が豊富というだけではなく、愛川さんの優しさが視聴者に伝わっているからこそ番組が長く続いている」と語っていました。
「アド街」では、歌手デビュー前の「ゆず」や、新宿2丁目時代のミッツ・マングローブさんらも地道に取材しており、愛川さんは「街ってのは建物じゃない。人なんだ」との言葉も残しています。
「本業は俳優」という愛川さんは、テレビ朝日系の土曜ワイド劇場で、70以上の作品で主演し続けました。土曜ワイド劇場は大衆受けする作品が多いことで知られていますが、愛川さんはこう語っています。「テレビは大衆に愛されてこそ価値がある。いかに心地いいマンネリを作るかを常に意識しているんだ」
テレビ界を知り尽くし、お茶の間を沸かせた愛川さんですが、テレビ業界の将来に警鐘を鳴らし続けていました。「テレビはメジャーですから、大勢の人に受けなきゃあいけない。だから、本当にやりたいってことばかりはできない」「でも、バカばっかりやっていると、あきがきますよ」
96年には女優の中村メイコさんら業界の同志を集め、「テレビについて話す会」を結成。愛川さんは当時、「最近、テレビがひどい、という話を聞く。仲間に聞いても本当だ、という。テレビ界で働く我々が、番組の質や表現法などについて話し合い、どうすればよくなるかといった意見を小冊子にまとめ、発表していくことにした」と語り、世間に一石を投じました。
同世代でラジオやテレビで活躍した永六輔さんは愛川さんを「この人は手を抜くことを絶対にしない」と評しています。
04年に発表した自伝的小説『泳ぎたくない川』。この作品で愛川さんは、自身が婚外子だったことを初めて明かしました。母と2人きり、東京・巣鴨を離れ、茨城や福島、埼玉を転々としながら戦中戦後を苦労して生き抜いたといいます。
疎開先で母と一緒にナタを持っていじめっ子の家に怒鳴り込んだり、母が着物を売って日々の飢えをしのいだり・・・。それから数十年たっても、戦争などのニュース映像を見るたびに、東京大空襲があった45年3月10日に、埼玉県から見た東京方面の真っ赤な空を思い出したそうです。
愛川さんはいつも、意外なものをカバンに入れて持ち歩いていました。「日本国憲法」の小冊子。終戦後、復員兵だった社会科の先生から、中学2年で「民主主義の国で一番大切なもの」と教えられたといいます。「国で一番大切な法律に、戦争をしないと書いてある。すごい憲法だ、と先生が言った。以来、ぼくの頭の中の座標は、この年齢まで一度もぶれたことがありません」
今年3月、戦後70年にちなんで東京都墨田区が開いたイベントでは「反戦は憲法を守ることです」という自筆のメッセージを寄せていました。
テレビにかかわって半世紀。愛川さんは取材にこう話していました。「かつては撮影の待ち時間や食事時などに、スタッフと戦争や憲法の話をよくした。最近は敬遠されるけど、イヤなじいさんだといわれても、若いディレクターを捕まえての平和談議は続けたい」