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ほんやら洞、40年の歩み 反戦・反原発の拠点 再建へ支援の輪

全焼した京都市の喫茶店「ほんやら洞」は、文化の発信基地として有名なお店でした。1972年に手作りで建てた店舗が発祥。「くるり」の岸田繁さんら多くの人がツイッターなどで悲しみの声を寄せました。「ほんやら洞」の歩みを振り返ります。

開店して10年目、1982年の「ほんやら洞」
開店して10年目、1982年の「ほんやら洞」 出典: 朝日新聞

目次

 今月16日、全焼した京都市の喫茶店「ほんやら洞」は、文化の発信基地として有名なお店でした。1972年に手作りで建てた店舗が発祥。「くるり」の岸田繁さんら多くの人がツイッターなどで悲しみの声を寄せました。「ほんやら洞」の歩みを振り返ります。

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全焼した「ほんやら洞」=2015年1月16日
全焼した「ほんやら洞」=2015年1月16日

1972年、手作りで建てる

 「ほんやら洞」は1972年に生まれました。京都市上京区の今出川通に面し、同志社大の東にある木造二階建ての店舗です。写真家の甲斐扶佐義さんや京都精華大学長をつとめた中尾ハジメさんらが手作りで建てました。ベトナム反戦運動や反原発運動の拠点となり、詩の朗読会やフォークコンサートなどが開かれ、多くの文化人が出入りしました。

ほんやら洞の甲斐扶佐義さん=2005年12月
ほんやら洞の甲斐扶佐義さん=2005年12月

私服刑事が警戒する店

 甲斐さんは1949年、大分県生まれ。1968年に同志社大学に入学しましたが、1年余りで除籍。1972年のテルアビブ空港乱射事件で使われた銃を、米軍兵士から入手したという疑いをかけられ、2カ月間も警察に尾行されたことも。その後は、京都の日常の瞬間をとらえたユニークな白黒写真などを発表し続けています。

 「ほんやら洞」ができた1972年5月は、イスラエルの空港で、日本赤軍のメンバーが銃を乱射した時期でした。店では反戦運動の熱気の中で若い学者や学生が集い、議論を交わしました。岡林信康さんが反戦フォークを歌ったことも。日本赤軍の活動拠点と疑われ、私服の刑事が警戒する店でもありました。

学生運動が活発だった1969年、京大のシンボル時計塔にゲバラの像がはられた
学生運動が活発だった1969年、京大のシンボル時計塔にゲバラの像がはられた

「学生たち、いつでも来られるスペースに」

 1999年11月には、経営難から閉店しましたが、12月に、いったんは店を離れていた甲斐さんが店長となって復活。再開時にスタートさせた月刊ニュースレター「ほんやら洞通信」の創刊号には、国際日本文化研究センター教授の井上章一さんをはじめ、常連さんたちが寄稿しました。

 創業時に比べれば、市民運動をしたり、演劇をしたりする学生は少数派になりましたが、店では沖縄の基地問題に取り組む学生たちが議論をたたかわせたりしていました。2006年1月の朝日新聞紙面で甲斐さんは、こう話していました。「一生懸命何かをしている学生たちには、いつでも来られるスペースがあるよと温かく迎え入れてあげたい」

ほんやら洞店内=2005年12月
ほんやら洞店内=2005年12月

くるり・岸田繁さん「マジですか。。」

 今月16日に店が全焼したニュースは、多くの人がツイッターなどを通して、悲しみの声を寄せました。同じ京都の立命館大学出身の「くるり」の岸田繁さんはツイッターで「マジですか。。ほんやら洞。。大学時代の巣みたいな場所でした。。」というコメントを投稿しました。




【動画】京都をテーマにした「街」を歌う岸田さん、歌詞には「京阪電車の窓から見える~」のフレーズ 出典: 「くるり」公式YouTubeチャンネル

 ネット上では早くも再建を望む声が出ています。



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