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ソフトバンク日本一 注目の工藤公康さん、とっておきの話

 ソフトバンクの秋山幸二監督の後任として確実視されている工藤公康さん。高校時代の武勇伝から移籍にまつわる逸話、震災後に見せた行動など、工藤さんにまつわるエピソードをまとめました。

高校球児にエールを送る工藤公康さん=2012年5月24日の朝日新聞
高校球児にエールを送る工藤公康さん=2012年5月24日の朝日新聞 出典: 朝日新聞

目次

プロ野球ソフトバンクの秋山幸二監督の後任として確実視されている工藤公康さんは、48歳で現役引退を表明するまで、西武やダイエーなど4球団で活躍しました。高校時代の武勇伝から移籍にまつわる逸話、震災後に見せた行動など、工藤さんにまつわるエピソードをまとめました。

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工藤さんのプロフィール

子どもに投球フォームを指導する工藤公康さん=2012年7月1日の朝日新聞
子どもに投球フォームを指導する工藤公康さん=2012年7月1日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


まずは工藤さんの略歴から。

・愛知県出身の51歳

・名古屋電気高(現・愛工大名電高)に進み、3年生だった1981年の夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成

・ドラフト6位で西武に入団

・西武→ダイエー(現ソフトバンク)→巨人→横浜(現DeNA)→西武と渡り歩き、計11度の日本一に貢献

・西武・ダイエー・巨人で日本一を経験し、「優勝請負人」と呼ばれる

・実働29年で通算224勝142敗3セーブ

・現役引退後は野球評論家として活動

・今春から筑波大大学院の人間総合科学研究科でトレーニング方法などを学んでいる

野球を始めた意外な理由

ダイエー先発の工藤投手=1997年5月9日の朝日新聞
ダイエー先発の工藤投手=1997年5月9日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


頑固で野球好きな父の「ご機嫌取り」で始め、プロ入りまで「生きるためのすべ」だったといいます。

「おやじの構えたところに投げられなかったら、怒って殴られる。投げられたら、お菓子を買ってもらえる。おやじの機嫌一つで、家の雰囲気も決まる。楽しくないよね」

 負けず嫌いは「楽して、うまくなる方法を考えた」。雑誌に載っているプロの投手の分解写真を、手当たり次第にまねた。5人兄弟の4番目。

 「小さいとき、欲しい物を買ってもらったことなんてなかった。服も靴下も、兄貴たちのお古。プロに入った一番の理由も、お金が欲しかったから」と振り返る。
2010年12月29日の朝日新聞【47歳工藤「あきらめない」】

血だらけで続投、甲子園へ

大阪桐蔭対天理を観戦する工藤公康さん=2012年8月22日の朝日新聞
大阪桐蔭対天理を観戦する工藤公康さん=2012年8月22日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


高校3年の夏、愛知大会5回戦で打席に立っていた工藤さんは右目にデッドボールを受けました。

医者からは、すぐに病院に行くように言われたものの、最後の夏をこのままでは終われないと、投手としてマウンドに立ち続けました。

ユニホームが血だらけになったので、1番から17番のユニホームに着替えた。でも、目がふさがっていて見えない。特別にハンカチを持つことを許され、ハンカチを目に当ててサインを見て、ポケットにしまってから投げる、という繰り返しでした。
2012年7月12日の朝日新聞【工藤公康さんの熱闘エール】


その試合は無失点で勝利し、勝ち進んで甲子園出場を果たしました。

ドラフトで西武入団

日本シリーズで完投勝ちした西武・工藤投手=1991年10月20日の朝日新聞
日本シリーズで完投勝ちした西武・工藤投手=1991年10月20日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


プロに入って最初の球団は西武でした。

「番長」清原和博さんや「ナベQ」こと渡辺久信さんといったメンバーとともに黄金期を築きました。

86年には、この3選手が「86日本新語・流行語大賞」の流行語金賞を受賞。

その流行語とは「新人類」でした。

無気力でだらしない、という新人類のイメージをはねのけるのに貢献した、というのが受賞理由です。

FA宣言しダイエーへ

入団会見後にダイエーのユニホームを着る工藤投手=1994年12月7日の朝日新聞
入団会見後にダイエーのユニホームを着る工藤投手=1994年12月7日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


94年にはFA宣言をしてダイエーに入団。

この縁が、のちのちのホークス監督就任へとつながっていきます。

5年後の99年、工藤さんの活躍もあってダイエーが日本一に。

パ・リーグMVPにも選ばれましたが、直後に巨人への移籍が決まります。

球団とは五回ぐらい交渉したが、誠意が感じられなかった。年俸の額の問題ではない。本社の経営が苦しいことは知っているし、最初から「君を必要としているが、これだけしか出せない」と言ってくれたらよかった。それなのに駆け引きをしてきた。会社は、ビジネスだということはわかるが、ぼくはビジネスマンじゃない。駆け引きは好きじゃないし、できない。
1999年11月1日の朝日新聞
「ファンを裏切りたくないという気持ちがあったが、あのようなこと(退団をめぐる球団との騒動)もあり、男として残る決断をすることはできなかった」
1999年12月15日の朝日新聞


福岡では残留を求めてファンが署名を集め、自宅に届けました。

「愛弟子」城島との対戦

城島選手が工藤投手から左越えに本塁打を放つ=2000年10月22日の朝日新聞
城島選手が工藤投手から左越えに本塁打を放つ=2000年10月22日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


翌年には巨人とダイエーが日本シリーズで対戦。

工藤さんは「愛弟子」である捕手の城島健司さんと対決します。

ダイエー時代、工藤さんはイニングごとに城島さんにサインの意図を問いかけたそうです。

「試合が終わって時間がたってから言っても遅い。感覚がずれる」との理由からでした。

 城島さんは一軍に抜てきされた97年から3年間、そうやって工藤さんにたたき込まれたそうです。

そんな師弟対決の結果は、城島さんに軍配が上がりました。

低めの球をとらえ、左翼スタンドにホームランを放ったのです。

優勝請負人として、昨年までホークスのエースだった巨人・工藤公康投手の左腕がうなる。打席では、その工藤投手の球を受けていたホークス・城島健司捕手のバットが火を噴いた。昨年のホークス日本一を支え、師弟関係にあった二人の対決が、早くもシリーズ初戦で実現。違うユニホームに分かれはしたが、昨年に続いてシリーズの主役を担う二人の雄姿に、関係者は熱い視線を送っていた。
2000年10月22日の朝日新聞

再び西武へ 背番号55に込めた思い

藤井選手の棺を運ぶダイエーの選手とともに、喪服姿の巨人・工藤選手の姿もあった=2000年10月17日の朝日新聞
藤井選手の棺を運ぶダイエーの選手とともに、喪服姿の巨人・工藤選手の姿もあった=2000年10月17日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


巨人から横浜へ移り、最後は再び西武へ戻ります。

背番号は「55」でした。

生まれたのが5月5日であること、子どもが「まだまだゴーゴー」と言ってくれたことが理由ですが、もう一つ込められた思いがありました。

ダイエーで同僚だった故・藤井将雄投手の背番号15です。その5番を背負いたいという思いがあったのです。

藤井さんは99年、26ホールドで最多ホールドのタイトルを獲得。

しかし、その時すでに肺がんに侵されていて、00年10月に31歳でこの世を去りました。

工藤さんが99年に巨人に移る際、藤井さんに声をかけられたそうです。

「行かないでくださいよ、工藤さん」

この言葉が忘れられない工藤さんはこう話しています。

「病気のことを知っていれば、巨人に行かなかったかもしれない」

00年の日本シリーズでダイエーと戦った際、工藤さんは藤井さんの遺骨をしのばせて先発しました。

46歳の工藤がまだ1軍の戦力として現役を続ける。「野球をやりたくてやりたくて、できなくなった人たちがいる。そういう人の思いを背負って投げ続けたいと思う」。工藤は言ったことがある。
2009年11月17日の朝日新聞【EYE 西村欣也】

DeNA監督は破談、現役を引退

交代を告げられる工藤投手=2007年7月5日の朝日新聞
交代を告げられる工藤投手=2007年7月5日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


西武から戦力外通告を受け、所属先が決まっていなかった2011年12月。新規参入するDeNAの監督就任を要請されました。

就任は確実視されていましたが、編成権をめぐる対立から破談に。

それから数日後、自身のブログで現役引退を表明しました。

「大変心苦しく、つらい決断ではありますが、私、工藤公康は『引退!』をすることにしました」

東北の子どもたちのために壊れたなら本望

工藤公康さん=2011年8月7日の朝日新聞
工藤公康さん=2011年8月7日の朝日新聞 出典: 朝日新聞


監督就任をめぐり話題になったこの年は、東日本大震災が起こった年です。

工藤さんは震災3カ月後から被災地で野球教室を開き、参加した球児全員の打撃投手を務めてきました。

西武に戦力外通告を受け、復活に向けてトレーニングを積んでいた時期です。

軟式球とはいえ、1日100人を相手にする負担は大きいものでした。

「僕の肩は完全に壊れました」。大きな目を少しだけ細めて、付け加えた。「でも東北の子どもたちのために壊れたなら、僕の左肩も本望でしょう」
2013年12月14日の朝日新聞【すぽーつ勝手にコラム】


その年の末、48歳で現役を退いた工藤さん。

引退から1年ほど前のインタビューで、限界について問われ、こう答えています。

「人間は、何をするにしても制御してしまう。それ以上やると、きついという一線があるから、『もう十分です。後悔はない』と言う。楽な方を選びたがる。その集大成が『限界』なんじゃないか。乗り越えたことがないから、乗り越えられないだけ。人間の能力はそんなに低くない。高いんだって信じている」
2010年12月29日の朝日新聞【47歳工藤「あきらめない」】


これから指導者としての道を歩む工藤さん。次々と立ちはだかる壁を軽やかに乗り越える姿が楽しみです。

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