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感動

「赤ちゃん、泣け泣け」BEGINライブに込めた思いが切ない

バンド「BEGIN」のコンサートでは赤ちゃんが泣いてもOK。そこには沖縄出身アーティストならではの深い思いがありました。

「BEGIN」ボーカルの比嘉栄昇さん=郭允撮影
「BEGIN」ボーカルの比嘉栄昇さん=郭允撮影 出典: 朝日新聞デジタル

目次

「今はもう、泣いてもいい時代なんだから」

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 6月上旬、東京都福生市でのコンサート。アンコールの「涙(なだ)そうそう」で会場が静まりかえる中、赤ちゃんが突然泣き出した。「泣け泣け、と思いました。今はもう、泣いてもいい時代なんだから」
 太平洋戦争末期、沖縄は、米軍の激しい攻撃にさらされた。山中の洞窟や壕(ごう)に隠れた島の人たちは、敵に見つからないよう歌うことはもちろん、赤ん坊を泣かせることさえ禁じられた。
朝日新聞
沖縄戦末期に激戦の場となった喜屋武岬(手前)から荒崎海岸にかけて美しい海が広がる=早坂元興撮影
沖縄戦末期に激戦の場となった喜屋武岬(手前)から荒崎海岸にかけて美しい海が広がる=早坂元興撮影 出典:朝日新聞

沖縄戦、母の涙の意味は…追い詰められた住民


朝日新聞那覇総局のTwitterが日付ごとに69年前の「その日」をつぶやき続けていました
Togetterまとめに全文。相当の覚悟がなければ読めない重すぎる証言集です。

沖縄戦は6月だけ起きたわけではありません。69年前のきょう、何があったのか。出来る範囲でつぶやいていこうと思います。




「いま、僕たちは幸せに生きていますよ」

【比嘉栄昇さん】「(赤ちゃんの)泣き声を聞くと、先人に少し恩返しができたのかな、と思う。あなた方のおかげで、いま僕たちは幸せに生きていますよ、と実感できます」
 01年から始めたのが「うたの日コンサート」だ。沖縄戦で組織的な戦闘が終わったとされる6月23日は「慰霊の日」。その翌日を島に歌が帰ってきた日、「うたの日」と自分たちで決めた。
朝日新聞デジタル

ほかにもこんな人たちが語っています

知花くららさん
知花くららさん 出典:朝日新聞
 【知花くららさん】1945年3月26日に祖父のふるさと、慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島に米軍が上陸。祖父は姉と2人、「自決」を決め、姉の首をしめた。祖父は当時15歳。自分の首は、ヤシの葉をヒモ代わりにしてしめ、木にくくりつけて首をつろうともした。でも2人とも死にきれなかった。米軍に捕まる前に死を選ばなければいけない――そう信じ込んでいた、と。
 (中略)命のつながりを初めて実感する思いでした。祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる。沖縄では「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」とよくいうけれど、本当にそうなんだなと。
朝日新聞デジタル わたしと沖縄戦 戦後69年(上)
二階堂ふみさん
二階堂ふみさん 出典:朝日新聞
【二階堂ふみさん】沖縄戦について伝えてくれる写真や物語は、目を伏せたくなるようなものがたくさんある。そうしたものを子どもには見せてはいけない、とフタをする風潮にわたしは異を唱えたい。知らないまま大人になることの方が危険だと思うんです。
 (中略)戦争中も、明日のご飯や、恋人のことを心配していた人がいたんです。いまと同じように。そうやってとらえて初めて、なぜ、戦争に突き進んでしまったのか、という大切なことが考えられると思う。
朝日新聞 わたしと沖縄戦 戦後69年(中)
いっこく堂さん
いっこく堂さん 出典:朝日新聞
【いっこく堂さん】弟が泣くと、日本兵が言ったそうです。「うるさい、出ていけ」。もう生きていても仕方がない。そう思った母たちは壕を出て、あてもなく歩きました。山の中で葉っぱも、トカゲも、カエルもなんでも食べて飢えをしのいだ。母は幸運にも爆弾に当たらず、生き残りましたが、それでも3人の弟のうち、2人が栄養失調で死んでしまいました。沖縄に姉2人、兄2人が残っていましたが、沖縄戦でマラリアにかかって2人が亡くなりました。
 幼いころは正直、母親らの話を遠い昔のこととしか聞いていませんでした。でも少しずつ、そうした話がとても大切なことなんだと気づくようになりました。
朝日新聞 わたしと沖縄戦 戦後69年(下)
THE BOOM 宮沢和史さん
THE BOOM 宮沢和史さん 出典:朝日新聞
THE BOOMの名曲「島唄」も沖縄戦の悲劇を描いた歌です。
【宮沢和史さん】「島唄」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い(中略)激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。(中略)極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。
2005年8月22日付朝日新聞 (宮沢和史の旅する音楽:その1) たった1人のために
 【宮沢和史さん】資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。
2005年8月22日付朝日新聞(宮沢和史の旅する音楽:その1) たった1人のために
「ウージの下」は畑の下にあったガマを指す。
2009年6月20日付朝日新聞 (うたの旅人)ザ・ブーム「島唄」 風に乗り、海渡った魂
 一方でためらいがあった。「自分が歌っていいのだろうか」。触れてはいけない壁のようなものを感じた。歌詞に、男女が出会い、そして別れる場面がある。本土の犠牲になって別れを余儀なくされた部分に沖縄音階をつけたくなかった。そこだけは普通の音階に戻した。見えない壁がそうさせた。(中略)励ましてくれたのが喜納さんだった。「音楽では魂までコピーしたら許される」
2002年5月16日付朝日新聞 本土発「島唄」、風に乗り(沖縄とヤマト 30年の道のり:1)

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